2016年4月30日土曜日

太陽


監督 入江悠
原作 前川知大
脚本 入江悠、前川知大
撮影 近藤龍人
音楽 林祐介
出演 神木隆之介、門脇麦、古川雄輝、綾田俊樹、水田航生、高橋和也、森口瑤子、村上淳、中村優子、鶴見辰吾、古舘寛治

公開から一週間、レイトショーとは言えゴールデンウィーク初日の祝日で客入りはぼくを除いて数人、一抹の寂しさと不安を胸に鑑賞に臨みましたが…ごめんなさい!ぜんぜんダメでした!大変に意欲的な作品であり、今をときめく撮影の近藤龍人さんの技量も存分に発揮され、演者さん達の熱の入れようもひしひしと伝わっては来たのですが、いかんせんぼくの苦手とするタイプの一本であり相性が悪かったようです。

そもそも、ぼくは舞台演劇が苦手なのですね。それに限らずライブパフォーマンス(コンサートもダメ)というものをほとんど受け付けないのです。それで、この作品は「イキウメ」を主宰する劇作家であり演出家の前川知大の同名の戯曲の映画化なのですが、映画それ自体、かなり意図的に舞台演劇に寄せて作られています。舞台と言うのは固定された空間で行われる為、記号的なセットが組まれて、ビジュアル的には観客の想像に委ねるところが大きくなり、演技についても大仰に、よりビビットに伝わるお芝居でなければならんでしょう。片や、映画の場合は(バジェットやテクノロジーの問題はあるにせよ)それとは逆の視点で映像的にも演技の面でも自由度が高くなると思います。ぼくはより映画的な映画の方が好みなんだと言うことでしょう。うまく説明できませんが。

近未来の日本が舞台となっており、「ノクス」と「キュリオ」と言う異なる階層社会とそこに暮らす人々を描いているのですが、それ分断する関所みたいなところに門扉があるんです。その門扉が開いたり閉まったりするときにゴゴゴガガガ…と結構重々しい音がするのですが、門そのものの見立ては金網のフェンスくらいのちゃちさで、すーっと開閉するのでぜんぜんマッチしてないのです。その脇には電話ボックスみたいな番所があるのですがそれもちゃちい。中にあるパネルみたいなのをタッチするとピポピポと音がするんですが、それもダサい。ワーゲンビートルみたいな車が走るとシュィーンと音がしてそれもまたダサい。病院の手術室とか、あの手術そのものの描写とかもダサい。“モルダウ”の使い方もダサい。要は今作で描写される近未来感みたいなのが全てダサく感じられてしまって全然お話に没入できないのです。

村上淳が演じる克哉が何をしたかったのかも良く分からんです。冒頭、えらい事件を起こして四国に逃げ、十年後に舞い戻ったかと思いきや突然、モトクロスバイクで門扉のある場所に現れてひと暴れ、走り去って次のシークエンスではまた突然現れたものの村人に寄ってたかって嬲り殺しにされると言う体たらく。ちなみに、このシーンは入江悠監督らしく長回しで撮影され、その画面に溢れる情報量から今作の白眉とも言える名場面なのですが、ぼくは滑稽にすら感じてしまい、「お前たち、一体何をやっているんだ」と小一時間お説教したくなりました。

ぼくが小学生の頃、部活動でサッカーを始めたのですが、コーチである教師が何度も「ボールに集まるんじゃない!」と注意していました。もっとコートをワイドに使えと。この映画を観ながらそんな事を思い出しました。世界規模、人類全体のお話なのに、とあるコミューンとコミューンの小競り合いくらいにしか見えないんですよ。説明すべきでないところを台詞で説明し、逆に説明すべきエピソードをぽんっと放り投げちゃってる、そんな印象で、ぼくは率直にこれは舞台で観劇するか、あるいは小説で読んだ方がグッとくるだろうな、と感じちゃいました。

とは言え、おそらくは今作でぼくが違和感を覚えた、あるいは突っ込みどころと感じた部分は入江監督が意図的にやっていることだろうと思います。観る人が観れば、あるいは僕以外の鑑賞者の大半が素晴らしい作品だとの感想を持ったかもしれない。そうなってくると、単純にぼくにある種の感受性が欠落しているのだと言う結論になって「つまんないって思う、お前がつまんないんだ!」と無限鬱ループにハマり、ダークサイドへと落ち込んでいくのです。ただ、ラストのシークエンス、雪が舞い散る橋のシーンの後に画面変わって、小春日和のススキ野原とかおかしいと思うけどなあ。一年経ったのかな。ぶつぶつ…。

神木きゅんありきの映画とも言えます。門脇麦ちゃんも頑張ってました。

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